事業とは何かを決めるのは、生産者ではなく顧客である。社名や定款ではない。顧客が製品やサービスを購入して、自らを満足させる欲求が何であるかが事業を決める。したがって、「われわれの事業は何か」という問いに対する答えは、事業の外部、すなわち顧客や市場の立場から事業を見ることによってのみ得られる。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p64-65
企業にとって第一の責任は、存続することである。言い換えるならば、企業経済学の指導原理は利益の最大化ではない。損失の回避である。企業は事業に伴うリスクに備えるために、余剰を生み出さなければならない。リスクに備えるべき余剰の源泉は一つしかない。利益である。
しかも、事業は自己のリスクだけに備えればよいわけではない。利益をあげられない他の事業の損失の穴埋めにも貢献することが必要である。社会には、いくつかの企業が損失を出して消滅していくという経済的な新陳代謝が不可避である。それこそが、自由で柔軟、かつ開放された経済の維持のための条件である。
企業は、教育や防衛などの社会的に費用に貢献する必要もある。税金を納められるだけの利益をあげる必要がある。
事業の拡大のための資金を生み出す必要がある。そして何にもまして、自らのリスクを賄うに足る利益をあげる必要がある。
要約するならば、利益の最大化が企業活動の動機であるか否かは定かではない。これに対し、未来のリスクを賄うための利益、事業の存続を可能とし、富を生み出す資源の能力を維持するための最低限度の利益をあげることは、企業にとって絶対の条件である。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p60-61
企業は、顧客の創造という目的を達成するために資源を利用する。企業は、資源を生産的に利用する機能をもつ。これが事業の管理的機能である。その経済的側面が生産性である。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p52
生産性の向上は、肉体労働によっては実現されない。逆にそれは、肉体労働をなくす努力、肉体労働を他のものに置き換える努力によってもたらされる。こうして肉体労働を代替したものの一つが、資本財すなわち機械設備の力だった。
生産性の向上にとって、機械設備への代替に劣らず重要でありながら、いまだ十分に行われていないものが、熟練未熟練の肉体労働者を教育ある理論的、分析的な人的資源に代えること、すなわち肉体労働者を経営管理者や専門職に代えること、体の駆使を頭脳の駆使に代えることである。実は、そのような代替は、肉体労働から機械設備への代替の前に行われる。なぜなら、機械設備を計画し設計するという理論的、分析的、概念的な仕事を、誰かが行わなければならないからである。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p53-54
マーケティングだけでは企業は成立しない。静的な経済の中では企業は存在しえない。企業人さえ存在しえない。静的な社会における企業人は、手数料収入を得るブローカーにすぎない。
企業は、発展する経済においてのみ存在しうる。少なくとも変化が当然であり望ましいとされる経済においてのみ存在しうる。企業とは、成長、拡大、変化のための機関である。
したがって、第二の起業家的機能がイノベーションである。すなわち、より優れ、より経済的な財やサービスを創造することである。企業は、単に経済的な財やサービスを供給するだけでは十分でない。より優れたものを創造し供給しなければならない。企業にとって、より大きなものに成長することは必ずしも必要ではない。しかし、常により優れたものに成長する必要はある。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p50
冷蔵庫を食物の凍結防止用としてエスキモーに売り込むことに成功した営業マンは、新しいプロセスを開発した者と同様、イノベーションの担い手である。食物を冷たくしておくためのものとして冷蔵庫を売ることは、市場を開拓したことになる。しかし、食品が冷えすぎないようにするためのものとして冷蔵庫を売ることは、製品を創造したことになる。もちろん技術的には、いずれも同じ製品である。しかし経済的には、後者はイノベーションである。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p50-51
マーケティングは企業に特有の機能である。財やサービスを市場で売ることが、企業を他のあらゆる人間組織から区別する。教会、軍、学校、国家のいずれも、そのようなことはしない。財やサービスのマーケティングを通して自らの目的を達成する組織は、すべて企業である。逆に、マーケティングが欠落した組織やそれが偶発的に行われるだけの組織は企業ではないし、企業のようにマネジメントすることもできない。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p47
マーケティングは販売よりもはるかに大きな活動である。それは専門化されるべき活動ではなく、全事業に関わる活動である。まさにマーケティングは、事業の最終成果、すなわち顧客の観点から見た全事業である。したがって、マーケティングに対する関心と責任は、企業の全領域に浸透させることが不可欠である。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p49
企業とは何かを理解するには、企業の目的から考えなければならない。企業の目的は、それぞれの企業の外にある。事実、企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である。
市場は、神や自然や経済によって創造されるのではなく、企業によって創造される。企業が満足させる欲求は、それを充足する手段が提供される前から顧客が感じていたものかもしれない。その欲求は、飢饉における食欲のように、顧客の全生活を支配し、常時顧客の頭を占めていたものかもしれない。しかしそのような欲求は、単に想定されるものであって現実の欲求ではない。実際には、企業の行為が人の欲求を有効需要に変えたとき、初めて顧客が生まれ、市場が生まれる。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p46
事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いなだけではない。的外れである。
同じように、企業とその行動に関する一般に流布されたある経済理論、すなわち利益最大化の理論も完全に破綻している。それは「安く買って高く売る」というセリフの言い換えにすぎない。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p43
利益は、企業や事業の目的ではなく条件なのである。また利益は、事業における意思決定の理由や原因や根拠ではなく、妥当性の尺度なのである。(中略)
利益についてこのような混乱を招いた原因は、利潤動機という本能的な動機が企業人の行動の動機であり基準であるとする誤った考えにある。しかし、利潤動機なる本能的な動機の存在そのものさえ疑わしい。利潤動機とは、そもそも古典派経済学が経済行為を説明するために考え出したものである。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p44
人の成長ないし発展とは、何に対して貢献するかを人が自ら決められるようになることである。しかし我々は、通常、一般従業員を経営管理者と区別し、彼らを自分や他の人の仕事についての決定に責任もなければ関与もせず、指示されたとおりに働く者として定義する。ということは、一般従業員を物的資源と同じように見、企業への寄与に関しても機械的な法則の下にあるものと考えていることを意味する。これは重大な誤りである。
しかし、この誤りは、従業員の仕事の定義に原因があるのではない。むしろ、従業員の行うことの多くがマネジメント的な要素を含み、うまくマネジメントするならば、きわめて生産的な仕事にすることができるという事実を見逃しているところに原因がある。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p16
企業とは何かを理解するには、企業の目的から考えなければならない。企業の目的は、それぞれの企業の外にある。事実、企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である。
市場は神や自然や経済によって創造されるのではなく、企業によって創造される。企業が満足させる欲求は、それを充足する手段が提供される前から顧客が感じていたものかもしれない。その欲求は、飢饉における食欲のように、顧客の全生活を支配し、常時顧客の頭を占めていたものかもしれない。しかしそのような欲求は、単に想定されるものであって現実の欲求ではない。実際には、企業の行為が人の欲求を有効需要に変えたとき、初めて顧客が生まれ市場が生まれる。
欲求が感じられていないこともある。企業が広告、営業活動、新製品の開発によって欲求を生み出したとき、はじめて欲求が生まれるケースである。いずれにせよ、顧客を創造するのは企業の行為である。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p46
経営管理者は、情報という特有の道具をもつ。経営管理者は人を操ろうとしてはならない。一人ひとりの仕事について、動機づけし、指導し、組織しなければならない。そのための唯一の道具が、話す言葉であり、書く言葉であり、数字の言葉である。経営管理者の仕事の成果は、たとえそれがエンジニアリング、経理、販売のいずれであろうとも、聞き、読み、話し、書く能力にかかっている。
『現代の経営(下)』 p217より引用
経営管理者は言葉を知る必要がある。言葉とは何であり、何を意味するものであるかを知らなければならない。そしておそらく何よりも、人に与えられた最も貴重な能力としての言葉を尊重することを学ばなければならない。知識を愛することへと引き寄せる術としての言葉の意味を理解しなければならない。経営管理者は、話し言葉や書き言葉によって人を動機づける能力がなければ成功しえない。
『現代の経営(下)』 p218より引用
人事の決定が時間をとるのは、神は、人を組織のための資源として創造したわけではないという単純な理由による。人は、組織においてなすべき仕事に適した大きさや形では現れてくれない。仕事に適するように組み立て直したり鋳直したりすることはできない。
人は常に、仕事に関してせいぜい及第点であるにすぎない。したがって、ほかに代えるべき資源が存在せず、人を使って仕事をせざるをえないときには、多くの時間と思索と判断が必要となる。
『経営者の条件』 p55
いかなる事業を行うかはトップマネジメントが決める。そのための最終製品が決定され、事業上の目標が設定される。そこから、行われるべきことが一つひとつ明らかにされていく。
しかし、マネジメントの仕事は、下から決めていかなければならない。生産、販売、設計の最前線の活動からスタートしなければならない。すべては最前線のマネジメントの仕事ぶりにかかっている。上層のマネジメントの仕事は、この最前線のマネジメントを助けるための派生的な仕事に過ぎない。
あらゆる権限と責任が最前線にある。彼らにできないことだけが上層にゆだねられる。いわば、最前線のマネジメントが組織のDNAである。上層の機関のなすべきことは、すべてそこで規定される。
『マネジメント(中)』 p50-51より引用
いかなる仕組みをつくろうとも、マネジメントへの昇格人事で日頃いっていることを反映させなければ、優れた組織の文化をつくることはできない。本気であることを示す決定打は、人事において、断固、人格的な真摯さを評価することである。なぜならば、リーダーシップが発揮されるのは、人格においてだからである。多くの人の模範となり、まねされるのも人格においてだからである。
真摯さは習得できない。仕事についたときにもっていなければ、あとで身につけることはできない。真摯さはごまかしがきかない。一緒に働けば、特に部下にはその者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。部下たちは、無能、無知、頼りなさ、不作法などほとんどのことは許す。しかし真摯さの欠如だけは許さない。そして、そのような者を選ぶマネジメントを許さない。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p218
知識がなく、仕事もたいしたことがなく、判断力や能力が不足していても、害をもたらさないことはある。しかし真摯さに欠ける者は、いかに知識があり、才気があり、仕事ができようとも、組織を腐敗させる。企業にとって最も価値ある資産たる人材を台無しにする。組織の文化を破壊する。業績を低下させる。
P.F.ドラッカー 『現代の経営[上]』 p219
報告と手続きは道具である。だがこれほど誤って使われ、害をもたらしているものもない。報告と手続きは誤った使い方をされるとき、道具ではなく支配者となる。
報告と手続きの誤った使い方は三つある。
第一によく見られる誤りは、手続きを規範とみなすことである。
第二によく見られる誤りは、手続きを判断の代わりにすることである。
第三に、最もよく見られる間違った使い方としては、報告と手続きを上からの管理の道具として使うことである。
『現代の経営(下)』 p183-184より抜粋
報告や手続きは、重要な領域で成果をあげるうえで必要なものに限定すべきである。すべてを管理しようとすることは何も管理しないに等しい。成果に直接関係ないことを管理することは、人を誤って導く。
『現代の経営(下)』 p186
帆船全盛の頃、いずれの船会社にも「後家づくり」と呼ばれる船が現れたものである。「後家づくり」とは、なぜか死亡事故を起こす船に付けられる名である。船主たちは、そのような船は思い切って解体した。そうしないことには、船長や航海士のほうが辞めていってしまった。
今日では、優秀な者が連続して失敗する仕事が「後家づくり」である。理屈ではよくできた仕事に見える。しかし、実績のある者が二人続けて失敗したならば、そのような仕事は廃止し、仕事の内容を再構成しなければならない。あとになってみれば、どこが悪かったかも明らかになる。
『マネジメント(中)』 p40より引用
通常、「後家づくり」は偶然生まれる。それは、たまたま一人の人間のなかにはなかなか見られない二つの資質を併せもつ者が、うまくこなしてしまったために生まれる。当然のことと思われていた仕事が、属人的な偶然の産物だった。それでは同一の資質の者を探すことは不可能である。
『マネジメント(中)』 p41より引用
社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。
『マネジメント[エッセンシャル版]』 p35
Society or the economy can put any business out of existence overnight.The enterprise exists on sufferance and exists only as long as society and economy believe that it does a job,and a necessary, useful, and productive one.
『Management』 p113
そもそも利益とは目的ではなく結果である。マーケティング、イノベーション、生産性向上の結果、手にするものである。
『マネジメント(上)』P.F.ドラッカー(ダイヤモンド社) p87
人と働くことは人の成長に関わりをもつということである。いかにともに働くかが、個としての人間および働く者としての人間の成長を助けるか妨げるかを左右する。このことは、マネジメントの対象となる者だけでなく、マネジメントをする者にも当てはまる。部下を正しい方向へ導き、より大きく、より豊かな人間にすることが、直接的に、自らがより豊かな人間となるかより貧しい人間となるか、成長するか退化するかを決める。
人のマネジメントに関わる能力、例えば議長役や面接の能力は学ぶことができる。管理体制、昇進制度、報奨制度を通じて、人材開発に有効な方策を講ずることもできる。だが、それだけでは十分でない。スキルの向上や仕事の理解では補うことのできない根本的な資質が必要である。すなわち真摯さである。
『マネジメント(中)』 p29より引用
マネジメントの仕事は、体系的な分析の対象となる。マネジメントにできなければならないことは学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、初めから身につけていなければならない資質が一つだけある。才能ではない。真摯さである。
『マネジメント(中)』 p30より引用
成果をあげるには意思決定の数を多くしてはならない。重要な意思決定に集中しなければならない。個々の問題ではなく根本的なことについて考えなければならない。問題の根本をよく理解して決定しなければならない。不変のものを見なければならない。したがって、決定の早さを重視してはならない。あまりに多くを操ることはかえって思考の不十分さを表す。何についての決定であり何を満足させるかを知る必要がある。形にこだわることなく、インパクトを求めなければならない。賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない。
『経営者の条件』p154より引用
仕事を生産的なものにするには、仕事が客観的な存在であり、スキルや知識は、仕事側ではなく労働側の問題であることを認識しておかなければならない。なぜならば、仕事がそのようなものであるからこそ、仕事を生産的なものにすることに体系的に取り組むことができるからである。
人をして成果をあげさせるための第一歩は、仕事を生産的なものにすることである。仕事が要求するものを理解すれば、それだけ仕事を労働という人間活動に適合させることができる。仕事を理解すれば、それだけ人により多くの自由を与えられる。
『マネジメント(上)』p251-252より引用
産業の内部に四つ
1.予期せぬこと 2.ギャップ 3.ニーズ 4.産業の構造変化
産業の外部に三つ
5.人口構造の変化 6.認識の変化 7.新しい知識の獲得
『P.F.ドラッカー経営論集』より引用
つまるところ、イノベーションとは、天才のひらめきではなく、仕事である。それは知識を必要とする。創意を必要とする。焦点を必要とする。(中略)本当に不可欠とされるものは、目的意識を伴う激しく集中的な労働である。勤勉、忍耐、決意が欠けているならば、せっかくの才能、創意、知識も役に立たない。
『P.F.ドラッカー経営論集』より引用
(1)ある仕事につけた者が十分な成果をあげられなければ、人事を行った自分の間違いである。
(2)責任感のある者が成果をあげられるようにすることは、経営陣の責任である。
(3)人事は組織そのものの能力を左右するため、正しく行われなければならない。
(4)外部からスカウトしてきた人間にはじめから新しい大きな仕事を与えてはならない。
『P.F.ドラッカー経営論集』p178-179より引用
最近よく聞く話として、つい昨日まで順風満帆だった大会社が、突然、問題と危機に直面し、低迷し挫折する。
(中略)
原因はマネジメントの方法が下手だからではない。マネジメントに失敗したためでもない。たいていは事業を正しく行っている。単に実を結びえないことを行っているにすぎない。その原因はなにか。
それは、組織の設立とその後の経営に際して基礎とした前提が、現実に合わなくなったためである。組織の行動を規定し、何を行い、何を行わないかを決め、何を意味ある成果とするかを規定すべき前提が、時代遅れとなったためである。第一に、環境としての市場である。すなわち顧客や競争相手の価値観と行動である。第二に、自らの使命、目的である。第三が、自らの強みと弱みである。これらのものが、私が事業の定義とよぶものを構成する。
『P.F.ドラッカー 経営論集』 p154
第一の予防策は、私の言うところの体系的廃棄である。三年おきに、すべての製品、サービス、流通チャンネル、方針を根本的に見直すことである。
(中略)
第二の予防策は、外で起こっていること、とくにまだ顧客になっていない人たちについて知ることである。
『P.F.ドラッカー 経営論集』 p166-167
われわれは組織を蘇生させようとするとき、魔法の力をもつ人を探す。だが、事業の定義を見直すには、ジンギスカンやダヴィンチが必要なわけではない。
必要なのは天才ではない。勤勉さである。問題意識である。そもそもCEOとはそのための存在である。
『P.F.ドラッカー 経営論集』 p172
かつてマネジメントは、「人の仕事に責任をもつ者」と定義された。この定義は当時としては役に立った。マネジメントの機能をオーナーの機能と区別した。マネジメントの仕事が、分析、研究、改善の対象となる独立した仕事であることを明らかにした。(中略)
だが、この定義はあまり満足できるものではなかった。満足できたことなど一度もなかった。組織には初めから、明らかにマネジメントでありながら、しかも責任ある立場にありながら、人の仕事に責任をもたない人たちがいた。
『マネジメント(中)』 p16-17より引用
「人の仕事に責任をもつ者」という従前の定義では、マーケットリサーチ担当のマネジメントとは、「マーケットリサーチャーのマネジメント」ということになる。しかし、われわれが通常意味しているのは「マーケットリサーチのマネジメント」である。この通常の意味こそ、マネジメントの責任を正しく理解しているものである。
『マネジメント(中)』 p17より引用
マネジメントの人間を見分ける基準は、命令権の有無ではない。貢献の責任の有無である。権限ではなく機能がマネジメントを見分ける基準である。
『マネジメント(中)』 p18より引用
民主的という言葉は、政治や法律の言葉だ。参加的などという最近はやりの言葉も使いたくない。権限移譲という概念はもっと悪い。権限を一番下にもっていっても進歩にはならない。それは依然として権限だからだ。成果をあげるには、権限に代えて、責任を中心に据えなければならない。
私は管理者という言葉もあまり使いたくない。部下の存在を想定してるからだ。エグゼクティブという言葉を使いたい。支配ではなく、責任を意味しているからである。
『P.F.ドラッカー 経営論集』 p147
これからの組織は、上司と部下の関係ではなく、一人ひとりの人間とその支援者の関係になっていく。これまでの一〇〇年間、組織の骨格や構造は、地位と権力の組み合わせだった。これからは、理解と責任の組み合わせでなければならない。
『P.F.ドラッカー 経営論集』 p147
幸か不幸か、いかなる組織にも危機はくる。必ずくる。その時がリーダーに頼る時である。リーダーにとって最も重要な仕事は、危機の到来を予期することである。回避するためでなく備えるためである。危機がくるまで待つことは責任の放棄である。暴風雨を予期し、先手を打たなければならない。それがイノベーションである。倦むことのない刷新である。
『非営利組織の経営』 p9より引用
万事がうまくいかなくなるきっかけは、失敗したときではなく、成功しているときである。失敗したときには、誰もが働かなければならないことを承知している。ところが、成功しているときには、自己陶酔がやってくる。手持ちの資源が無駄遣いされる。
『非営利組織の経営』 p10より引用
かつて工場労働において実現したものに匹敵する生産性の向上をサービス労働において実現することは、先進国社会にとっての最優先課題である。
実質所得が生産性を越えられないことは、経済学の公理である。サービス労働の生産性を急速に向上させないかぎり、この膨大な階層、かつての肉体労働者と同じくらいの規模にまで大きくなったサービス労働者という階層の社会的、経済的地位は低下していくほかない。
『P.F.ドラッカー経営論集』 p124より引用
肉体労働者と知識労働者の違いは、彼らをめぐる経済的な原理において最も大きい。経済学も、現実の企業経営も、肉体労働者をコストとして扱う。しかるに、知識労働者を生産的な存在とするためには、資本財として扱わねばならない。コストは管理し、減らさなければならないが、資本財は増やさなければならない。
『明日を支配するもの』 P175 より引用
術も無く苦しくあれば出で走り去ななと思へど兒らに障りぬ
(すべもなくくるしくあればいではしりいななとおもえどこらにさわりぬ)
万葉集 巻五 八九九
1.リーダーシップを仕事として見ること。
2.リーダーシップを地位や特権ではなく責任と見ること。
3.信頼が得られること。
4.リーダーシップは賢さに支えられるものではなく、
一貫性に支えられるものであること。
『プロフェッショナルの条件』 p185-187より抜粋
S | M | T | W | T | F | S |
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