2013年12月30日
復本一郎さんのご著書『俳句と川柳』を拝読いたしました。
復本さんは1943年愛媛県宇和島市生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程を修了され、神奈川大学経営学部教授を務められました。現在は名誉教授になられているようです。俳人としても有名な方です。
この本は俳句と川柳の違いを文学的に解明しようと試みたものです。
私は過去には俳句を学んでいたことがありましたし、いまは月に一回川柳の会に参加していますので、この話題には興味があります。
一般的には、俳句は季節を詠むものでまじめなイメージ、川柳は世相を詠むもので面白いものというイメージがありますね。
ところが、かつては俳句もおかしさを追求していたのです。
読者の皆さんは、すでにおわかりであろうが、芭蕉以前の俳諧文芸においては、もっぱらいかに読者(仲間)を笑わせるかに全エネルギーが注がれていたのである。いきおい、その世界は、知的、観念的にならざるを得なかった。対象を見ることをしないで、その対象をテーマとする作品を作ったのである。それが俳諧という文芸であったのであり、誰一人として、それに対し疑問を持つ俳人はいなかった。
『俳句と川柳』 p147より引用
芭蕉の登場によってこれは大きく変わったそうです。
芭蕉は、詠まんとする対象と対峙したのである。そして対象をよく見、よく聞いたのである。そんなことをする俳人は、芭蕉以前に一人もいなかった。
『俳句と川柳』 p149より引用
では、川柳の笑いとはなんでしょうか。
一言で言えば、「穿ち」、すなわち世相や風俗を穿つところから生じる人情味豊かな噛みしめるような、静的な「笑い」だったように思われる。そして、この特質は、決して放擲すべきではないと、私などは思うのである。川柳が「笑い」を伴う「穿ち」を放擲ししまった時、それは、単なる五・七・五の十七音の、何ら特質を持たない短詩となってしまう。
私は、俳句における「笑い」の復権とともに、川柳における「笑い」を伴う「穿ち」の復権を提唱しておきたい。
『俳句と川柳』 p177より引用
俳句と川柳の違いについては、「切れ」があるかないかのようです。
俳句の面白さが、「飛躍切部」(「切れ」)があることによってのイメージに委ねられた面白さであるのに対して、川柳の面白さはやはり「穿ち」(着眼点)の面白さにあろう。川柳作者は、世相や人情や風俗を独自の視点により把握し得る鋭利な眼差しを必要とされているのである。「飛躍切部」(「切れ」)がない以上、読者のイメージに訴えて、読者に「余意」や「余情」を感受せしめる、ということができないのである。
『俳句と川柳』 p245より引用
私が俳句がうまくならないのは、切れが下手だからと思います。
また、川柳がうまくならないのは、一つは「穿ち」ができていないことですが、もう一つは俳句を作っていた時の癖で「切れ」を作ろうとしてしまうからだ、ということに気がつきました。
自分の経験からいって「切れ」のある川柳は、暗くなってしまうような気がします。
もっと学びたいと思っています。
ご興味のある方はご一読くださいませ。
よいお年をお迎えください。
ありがとうございます。

参考文献:『俳句と川柳』 復本一郎 (講談社現代新書)
参考ブログ:『俳句とエロス』を読んで
http://highlyeffective.naganoblog.jp/e522147.html
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸
2013年06月14日
冷泉貴実子さんのご著書『花もみぢ 冷泉家と京都』を拝読いたしました。
今月、お客さまのご紹介で京都市にあります重要文化財、冷泉家住宅を見学させて頂く機会がありました。一般公開されていないので大変貴重な体験です。
そのときに、勉強のためと思い、あらかじめ読んでおいた本です。
冷泉家とは藤原定家、俊成を祖先にもち、歌道を家業とする公家です。冷泉貴実子さんは第24代為任さんの御長女で、第25代為人さんのご婦人です。
現在、冷泉家住宅は同志社大学の一角にありますが、かつてその一帯は公家の住宅が立ち並ぶところだったそうです。さまざまな事情で公家の住宅がとり壊されていくなか、御文庫と呼ばれる書庫と共に冷泉家住宅は残ることができました。
そこには代々の冷泉家のみなさまの歌道の文化を残していきたいという強い意志と大変なご努力がありました。いまでも冷泉家においては御文庫を神殿と考えているのだそうです。
この本は冷泉貴実子さんが冷泉家の歴史や京都について書かれた随筆集です。
京都には「いけず」という言葉があります。「意地悪」といったような意味だそうですが、信州人の私には本当の意味がよく分かりません。
京都の人はいけずである。いまだに京都が、少なくとも文化では、日本の中心であると思い続けている。経済と政治は、どうやら東京へその中心が移ってしまったようだけれど、文化の中心は京都にあると心底信じている。京都が日本の中心であり、東京なぞまったくの田舎であると本気で思っている。
一流の人が、自虐的に「東京から来た田舎者です」と言っても、まったくその通りだと誰も否定しない。だからどうしてもいけずになる。
『花もみぢ 冷泉家と京都』 p241より引用
なるほど~そうなんですね。日本の歴史では京都に御所があった時代のほうがずっと長いのですよね。
街中に点在する料亭は、いけず心で、金さえ払えば何でも出来ると思っているギャルの攻勢を食い止めているし、花街のお茶屋は、下品な酔っ払いを寄せつけない。
この京のいけず心を、宝の一つに是非数えたい。
『花もみぢ 冷泉家と京都』 p242より引用
この力強さが日本の伝統文化を守ってきたのですね・・・・・・
冷泉家のみなさまがどんな思いをされて文化を守ってきたのかよく分かる本です。和歌、歌道の伝統についても説明されています。
冷泉家住宅の見学では冷泉貴実子さんのお話をお聞きすることができました。この本を読んでおいたおかげで大変分かりやすかったです。
どうぞご参考になさってください。

参考文献:『花もみぢ 冷泉家と京都』 冷泉貴実子 (書肆フローラ )
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸
2013年04月30日
久住昌之作、谷口ジロー画、『散歩もの』を拝読しました。
前にご紹介しました『孤独のグルメ』という漫画本と同じコンビで書かれた散歩のマンガです。
参考ブログ:『孤独のグルメ』を読んで
http://highlyeffective.naganoblog.jp/e1143233.html
『孤独のグルメ』を購入したのと同じ福岡空港のSKYSHOPに置かれていましたので、なんとなく内容にひかれて購入してしまいました。
『通販生活』という雑誌に、2000年夏号から季刊として年四回で二年間掲載されたものだそうです。
久住さんはこの連載の取材のための散歩をするにあたり、三つの決めごとをしたそうです。
①調べない
②道草を食う。
③ダンドらない。
その決めごとの通り、主人公の上野原は散歩を「意味無く歩くことの楽しみ」と考えています。
上野原は、品川、吉祥寺、目白などをぶらぶら歩きますが、話はさらさらと流れていき、特別引っかかるようなところはありません。
古い街や古いものを見て、ノスタルジアを感じるのがこのマンガのおもしろさですね。
知らない街を歩いていて昔のものが目に入ると、何となく懐かしいような気分になりますよね。年をとる毎にそういう気持ちは深まっているような気がします。
羽田行きの飛行機の中でサッと読みました。
ご興味のある方は読んでみてください。

参考文献:『散歩もの』 久住昌之(作) 谷口ジロー(画) 扶桑社文庫
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸
2013年03月13日
川村元気さんの小説『世界から猫が消えたなら』を拝読いたしました。
川村さんは1979年生まれ、『電車男』『告白』『モテキ』『おおかみこどもの雨と雪』などを製作された映画プロデューサーです。2011年には優れた映画製作者に贈られる「藤本賞」を史上最年少で受賞されました。本書が初めての著作です。
この本が書店でたくさん並べられていたのを見たとき、どなたか有名人が新聞で紹介されていたのをふと思い出して、衝動的に購入したものです。
帯には、「本屋大賞ノミネート」「10万部突破」の文字と共に秋元康さんや角田光代さんなど有名人の推薦の言葉が並んでいます。これだけいろいろな方の推薦文が書いてあると否が応でも期待は高まります。
ある日突然末期がんの宣告をされた郵便配達員の主人公が悪魔と出会い、自分が一日延命するために、その代わりとして世の中から何か一つを消す、という契約を結ぶという内容の小説です。
全体的に軽い感じの文章ですが、自分の命と引き換えに何を消すか・・・・・・ということを考えていくにつれて話はだんだんと重くなっていきます。
猫を飼っておられる方は特に共感できるのではないかと思いますが、猫が話の主題というわけではありません。
アマゾンの書評を見ると、賛否いろいろな評価がありますね。
私はこれはこれで楽しみながらサッと読みました。
自分ももっと人にやさしくしていかないとなあ・・・・・・と感じました。

参考文献:『世界から猫が消えたなら』 川村元気 (マガジンハウス)
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸
2012年08月20日
俳句には「写生」や「写実」という概念があります。
千野帽子さんの『俳句いきなり入門』より引用いたします。
現実の雪や桜を見るのは、そのほんとうの姿を記述するためではない。既存の「型」に含まれない表現、あるいは日常あまり言われない表現を見つけるためなのだ。
つまり「ほんとうの姿」とやらを記述するためではなく、既存の「型」の蓄積という巨大な山の上に新ネタという小石を載せることができたらいいな~、という感じで見ることなのだ。現実を見るのは現実を報告するためじゃなくて、言葉のレパートリーを広げるためとしか私には思えませんけどね、どう考えても。
『俳句いきなり入門』より引用
これは分かりやすい説明ですね。
新聞などの俳句欄を読むと意味が分からない句も多いですが「おっ!この表現は!」という新鮮な表現の句がありますよね。
千野さんはこの有名な俳句を紹介されています。
鳥の巣に鳥が入ってゆくところ 波多野爽波
よく見かける当たり前の光景を普通の言葉で表現しただけですが、このように俳句になると新鮮で、瞬間的に鳥の物語が浮かんできます。
普段生活する言葉の中で新しい表現を試したら、相手にとっては意味が分からないですから、話が通じなくなってしまいます。
言葉のレパートリーを広げることができる、新しい表現に挑戦できる、という意味で俳句はやはりアートなんだと思います。

参考文献:『俳句いきなり入門』 千野帽子 (NHK出版新書)
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸
2012年08月17日
千野帽子さんの『俳句いきなり入門』を拝読いたしました。
千野帽子さんはフランス政府給費留学生としてパリ第4大学ソルボンヌ校博士課程を修了、2004年より文芸誌、女性誌、新聞などに書評やエッセイなどを寄稿されている「日曜文筆家」とのことです。
プロフィールには「勤め人」とも書いてあったので、気になってWikipediaで調べましたら、某大学でフランス語の教鞭をとられているようです。道理で海外の文学からの引用が多いわけです。
千野さんは、俳句は風流な芸術でも自己表現でもなく「高度に知的な言語ゲーム」だいいます。
例えば句会といえば、俳句を作って披露する場だと思っていましたが、千野さんは次のように述べています。
「句を出すこと」が句会の参加条件ではない。「他人の句を読んで投票し、句評すること」が句会の参加条件だ。
このような考えかたはたぶん従来の俳句の世界には存在しない。俳句業界的には完全に間違っているんだろうな。
『俳句いきなり入門』より引用
千野さんはこの精神にのっとり、ライブハウスで「東京マッハ」という公開句会を開いているのだそうです。
たとえば、二〇一一年六月にやった「東京マッハ」Vol.1は、檀上の四人がやっている句会を八〇人あまりが「観ていた」のではなく、「九〇人弱で句会をやってそのうち四人が投句者だった」のである。何度も書くが、句会とは句の良し悪しではなく読みの良し悪しを競う場なのだ。
『俳句いきなり入門』より引用
俳句についての考え方もユニークです。
それは、ひとことでいえば、「俳句は、自分の言いたいことを言うものじゃない」ということ。このことをわかっていないと、いくら技術論をやってもムダだと思う。
この本で言いたい最大のことをは、「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」ということだ。あなたの俳句の最大の敵は、あなたの「言いたいこと」なのだ。
『俳句いきなり入門』より引用
引用したところだけをみるとかなり前衛的に思われるかもしれませんが、全体を通して読んでみると文章は分かりやすいですし、納得できることが多いです。
この本の論理が正しいのかどうかはよく分からないのですが、文学ですからいろいろな考え方があっていいでしょう。私にとってはおもしろかったので、すいすい読めました。
俳句を理解するためにみなさまもぜひご一読ください。

参考文献:『俳句いきなり入門』 千野帽子 (NHK出版新書)
Hitoshi Yonezu at 10:00
| 読書感想 文芸