池上彰さんのご著書『池上彰と考える、仏教って何ですか?』を拝読いたしました。
池上さんは1950年長野県生まれ、慶應義塾大学卒業後、NHKに記者として入局、報道局社会部記者などを経て、2005年に退職、独立されています。報道についての分かりやすい解説で大変有名な方ですね。
この本は仏教の誕生、日本への伝来、葬式や戒名の意味などを分かりやすく教えてくれます。後半部分にはインドのダラムサラで行われたチベットの高僧、タムトク・リンポチェ及び、ダライ・ラマ14世法王との対談が掲載されています。
お釈迦様はインドで生まれましたし、仏教もインドが起源ですが、いま日本で広まっている仏教にはあまりインドらしい感じはしませんね。それは中国を経て日本へ伝わった仏教はその過程で変化をしてきているからです。
チベットに仏教が伝わったのは7世紀ころといいますから、6世紀半ばに伝わった日本とはさほど違いはありません。ただチベットはインドから直接仏教が伝来された地域であるところに大きな意味があります。チベットの仏教はお釈迦様の教えに最も近いのではないか、と感じました。
対談の中でリンポチェ(高僧に対する尊称)は、日本の仏教について、インドの仏教が中国を経由して伝わった正当な教えだと述べています。仏教の教えの土台となる四聖諦(四つの聖なる真理)もきちんと日本に伝わっているそうです。
では、日本の仏教の問題点は何でしょうか。リンポチェの言葉です。
しかし、私が拝見するに、日本の皆さんは本当に時間がなくて、いつも急いでいらっしゃる。仏教をじっくり学ぶ時間も、実践する時間もありません。欠点があるとすれば、この点でしょう。日本の仏教自体に何らかの欠点があるとは私は思いません。
『池上彰と考える、仏教って何ですか?』p130より引用
仏教には因果応報という考え方があります。幸せなこともつらいことも、その原因と条件の集まりに依存しており、自分自身のよい行いと悪い行いから生じているという考え方です。
ただ、自然災害については、地、水、火、風、空という五つの構成要素の変化であり、人間の行為には直接的に関係はないそうです。
ダライ・ラマ法王は東日本大災害について次のように言います。
普段から物質的な発展だけを追い求め、外面的な幸せを得ることだけを考えていたとしたら、内面的なことをあまり考えずに過ごしていたとしたら、このような惨事が起きたとき、すべての望みを失ってしまいます。
しかし、日頃からどのようなものの考え方をするべきかについて考え、心を訓練していれば、逆境に立たされた場合でも、心の中では希望や勇気を失わずにいることができるのです。
『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 p155より引用
ダライ・ラマ法王と日本の僧侶を見た目だけで比べてしまうと、まったく違う御姿ですから、同じ仏教なのだろうか?と釈然としなかったこともありましたが、この本を読んでその違いがよく分かりました。
仏教で葬式をあげるのならば、仏教に無関心でいたくはないですね。仏教を葬式だけのものにするのはいかがなものでしょうか。
みなさまもどうぞご参考になさってください。

参考文献:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰 (飛鳥新社)
Hitoshi Yonezu at 10:00
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横山紘一さんのご著書『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』を拝読いたしました。
横山さんは仏教学者です。1940年福岡県生まれ、東京大学農学部卒業後、東京大学大学院印度哲学科博士課程修了、現在は立教大学文学部名誉教授、正眼短期大学副学長を務めておられます。
先日、あるお寺のご住職にこの本の話をしたら、そういう本を書く人は大体「インテツだ」とおっしゃるのです。
「インテツ」ってなに?と思いましたら、東京大学の印度哲学科のことを「インテツ」と呼ぶのだそうです。おっしゃるとおり、著者の横山さんは印度哲学科の博士課程を修了されていました。
私はいままで松村寧雄先生や中澤昭彦先生から唯識の考え方を学んできましたので、阿頼耶識についておおよその枠組みは分かっているつもりです。
初めての方が読書だけで唯識を理解するのはなかなか難しいかもしれませんが、それでもこの本はかなり分かりやすいと思います。
松村先生はよく仏教はシステムだ、とおっしゃっています。巷にあふれる自己啓発書の元をたどっていくと仏教の唯識の考え方になるのではないか、と私は思います。
一つのリンゴをみるとき、私たちはリンゴという絶対的な確固たる存在があると思っています。
ここでもう一歩深く観察してみましょう。形も色も視覚がとらえたものであり、視覚の中にあるものです。資格という心の一部です。だからリンゴの形も色も心の中にあることになります。
見られる対象であるリンゴも「心」の中にあり、見る視覚も「心」ですから、実は、見るときは、
「心が心を見る」
のです。これが<唯識>が説く認識の基本構造です。
『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』 p94より引用
一本の木を見るときの例が挙げられています。
いま、三人が一本の木を眺めているとします。私たちは、常識や素朴実在論に従えば、三人の心の外に実在する、「一本の木」を三人がそれぞれ見ているのだと考えます。しかし、一本の木があるのではなく、三人はそれぞれ一人宇宙の中に住んでいますから、具体的にあるのは三人それぞれの心の中にある映像としての木です。
そこで三人が「あそこに木があるね」と語り合って初めて眼前に一本の木が設定されるのです。このように、木―広くは山川草木といった「自然」―は、私たちが、言葉で語り合うことによって設定されたものなのです。
『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』 p99-100より引用
世の中に存在しているものは、それぞれの宇宙の中で解釈している映像なのです。それに関わり合うことによってようやく、その実態が浮かび上がるのです。
世の中のものすべては透明であり、自分の関わり合いによって、いかようにも設定されるともいえます。
仏教の話となると宗派別の話になってしまいます。インドまでさかのぼって唯識の話をする人はなかなかいません。唯識の考え方を知ると、ものの見方が変わって、生き方にも関わってくると思います。
まずは、この本を読んでみてください。

参考文献:『阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門』 横山紘一 (幻冬舎新書)
Hitoshi Yonezu at 10:00
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