『成長から成熟へ さよなら経済大国』を読んで

2014年01月17日

 天野祐吉さんの『成長から成熟へ さよなら経済大国』を拝読いたしました。
 
 天野さんは1933年東京都生まれ、博報堂を経て、雑誌『広告批評』創刊編集長を務められ、その後はコラムニストとして活躍されていました。2013年お亡くなりになりました。
 テレビなどの出演も多い方でしたので、お顔をご存知の方も多いのではないでしょうか。

 この本は1月21日に開かれるビジネス読書会の課題図書です。友人のTさんが選んでくださいました。

 気になった部分をご紹介します。

 政府が出す広告について、次のように批判をされています。

 僕らが調べた限りでは、政府の広報活動には、大きく分けて「行政広報」と「政策広報」の二つがあります。行政広報というのは、何月何日に選挙があるといったような行政上のお知らせ、一方の政策広報というのは、政府が行っている政策に理解や協力を求める広告です。当然ですが、前者は告知広告、後者は意見広告という形になりますね。
 このうちの行政広報は、たいていの国では新聞や雑誌を使って広告をしています。が、マスメディアを使って政策広報をしている国は、ないと考えていい。なぜって、政府がやっている、あるいはやろうとしている政策には、国民の間に賛否両論があることが多い。それを一方的な意見広告として出すことは、それも国民の税金を使って出すことは許されないんじゃないか、というわけです。

        『成長から成熟へ さよなら経済大国』 p140-141より引用


 政府の意見広告というのはたびたび目にしましたが、どんな省の広告でも何の感動もなくて、薬にも害にもならない程度のものだと思っていました。
 広告批評から見ると、こういうことなんですね・・・・・・

 「地方分権」という言葉は普通に使われていますが、天野さんは次のように述べています。

 「地方分権」という言い方も、ちょっと気になる。だいたい「地方」とういのは「中央」の対置語ですね。中央があるから地方がある。地方は中央の下位概念です。民放の地方局がいい例です。あれはほとんどが、中央のキー局の子分みたいになっています。あるキー局に系列局の女子アナが集まって歌をうたったりする番組がありますよね。あれを見ていると、女子アナが全員同じような顔で、同じような言葉を、同じような調子でしゃべっていることにびっくりする。それぞれの地域の匂いが全くしてこないんです。
 これが文化の中央集権体制が生んでいることの縮図です。どうしてこうなるか。「地方」だからです。「地域」にしなきゃだめなんです。「地域」の上位概念はありません。しいて言えば「全土」でしょう。

       『成長から成熟へ さよなら経済大国』 p194より引用


 東京オリンピックが決まってますます中央集中が進むように思います。

 江戸時代の幕藩体制においては、それぞれの藩は独自の文化をもって独立した運営をしていました。距離の離れた藩と藩では方言が違い過ぎて言葉も通じなかったのではないでしょうか。
 
 なかなか鋭い指摘だと思いました。

 テレビでのコメントを聞いているような感じで、個別にはよく理解できたのですが、全体としては何を言いたいのかよく分からなかったので、読書会までに理解しておきたいと思います。

 ご興味のある方はご参考になさってください。

  


 参考文献:『成長から成熟へ さよなら経済大国』
 
  

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『「助けて」と言える国へ』を読んで

2013年11月29日

 奥田知志さんと茂木健一郎さんの対談を記録した新書『「助けて」と言える国へ』を拝読いたしました。

 奥田さんは1963年滋賀県生まれ、日本バプテスト連盟・東八幡キリスト教会牧師で、NPO法人「北九州ホームレス支援機構」理事長を務めておられます。
 茂木さんは1962年生まれ、脳科学者で、ソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャーを務めておられます。

 11月に博多で開催されたドラッカー学会で奥田さんのご講演をお聞きし、その場で購入しました。「絆が人を生かす」の言葉とともに奥田さんがサインをしてくださいました。

 奥田さんはホームレス支援を続けてきた方です。どうして茂木さんとの対談なのだろう?と思いましたが、NHKの番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』が機縁になっているようです。また、茂木さんは人々の連帯と倫理について社会的に発信をされてきた方なのだそうです。

 気になった部分を引用いたします。

 奥田 不登校がつらいのは、本来学校に行くか行かないかということがその子の人生の一部にすぎないにもかかわらず、その子の全部であるかのように周りや本人が思ってしまうことです。中学生にとって自己実現できる場所が学校しかない。クラブ活動も塾も学校を核として存在している、いわば付属品みたいなものです。

              『「助けて」と言える国へ』 p101-102より引用


 奥田 支援の現場で「ホームレスになった理由」を尋ねます。最後の引き金は何であったか。第一は「仕事」にまつわることです。失業とか。しかし、少なくない答えとして「家族と別れた」とか「離婚した」ということを言う人がいます。つまり、縁が切れて孤立するとき、人は働く意欲をなくし、金とも切れる。縁の切れ目が金の切れ目というわけです。人は、誰かのため、家族のために働くという面がある。だから、金がないから無縁になる一方で、無縁になったから仕事ができなくなり、金がなくなったということもあるわけです。

              『「助けて」と言える国へ』 p153-154より引用


 「なぜ、困窮者を支援するのか」。私はこの問い自体にたじろぐ。質問者に問い返したい。「なぜ、そんなことを問わねばならないのか」と。「困窮者を支援することに、理由が必要か」と。この質問の根っこには、困窮は自業自得であり、助ける必要などないという現代社会の掟が見え隠れする。あえて答えるならば、こう言いたい。「それが人間だからだ」「それが社会だからだ」
 なぜ、そう答えるのか。それは「人は一人では生きていけない」からだ。野宿者であろうとが、富裕層であろうが同じこと。この事実からは誰も自由ではない。私も、野宿者も、同じ現実を生きている。どちらも誰かを必要としている。「自己責任だ」ですますなら、社会も国家も不要となる。

             『「助けて」と言える国へ』  p208より引用


 ご講演をお聞きしなければ、自分からは絶対に読むことのなかった本です。

 私とホームレス支援はだいぶ離れたところにありましたが、この本を読んで自分の至らなさに気づきました。

 引用した部分はすべて奥田さんの言葉です。茂木さんよりも奥田さんのおっしゃっていることのほうに学びがありました。

 みなさまもどうぞご参考になさってください。

  


 参考文献:『「助けて」と言える国へ』 奥田知志 茂木健一郎 (集英社新書)
 


  

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『反・幸福論』を読んで

2013年07月09日

 佐伯啓思さんのご著書『反・幸福論』を拝読いたしました。

 佐伯啓思さんは1949年奈良県生まれ、東京大学経済学部卒業後、同大学経済学研究科博士課程単位取得、現在は京都大学大学院人間・環境学研究科教授を務めておられます。

 この本は平成22年12月から平成23年8月まで「新潮45」に掲載されたものです。時事的な出来事や話題をとらえて日本人の「幸福」について論じたエッセイ集です。

 日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思い出してみたいのです。

            『反・幸福論』 p8より引用


 昨今の日本における幸福について、佐伯さんは次のように述べています。

 こうして、「抑圧からの解放」という意味での自由が実現してしまった現代社会では、自由の実現は、あくことなき「利益」と「権利」の追求ということになってしまった。幸福であるための条件は「利益」と「権利」に接近することなのです。しかしそれは永遠に充足することはありません。「利益」と[権利」を無限に膨張させ続けるほかないのです。そのことは決して人を幸福にはしない。それどころか、ますます人を幸福から遠ざけてしまうのです。

            『反・幸福論』 p29より引用



 では、どんなことをすれば幸福に近づくでしょうか。佐伯さんはトルストイの考え方をその一つとして引用されています。

 そもそも幸福を私個人のものだと考えるからダメなのだ。なぜなら個人は個体として死んでしまい、消滅してしまうのだから。だから、個人の次元で幸福になろうとすると、人は幸福の可能性をなくすために幸福を追求する、という、ディレンマに陥ってしまう。
 ではどうするか。そこで他人の幸福を目指すことこそ己の幸福だと思えばよい。「他人が幸福になってくれることが私の幸福だ」というわけです。そもそも「死の恐怖」というのは、自分の肉体が消滅するというより、自分の幸福が消滅すると思うところから発するものであろう、とトルストイはいう。
 だが、自分の幸福は他人のなかにあると思えば、自分の死は自分の幸福の終わりだということにはならないわけです。自分が死んでも自分が幸福になってほしいと思う人が生きておれば、自分の幸福は消滅しないのです。

            『反・幸福論』 p127-128より引用
 

 これは深く考えさせられることです。

 このエッセイ集は知的好奇心を刺激するもので、それぞれの章を興味深く読むことができました。深く理解するためには、トルストイを始め、その他紹介されている原典を読まねばならないと感じました。

 みなさまもどうぞご一読くださいませ。

  


 参考文献:『反・幸福論』 佐伯啓思 (新潮新書)
 
  

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