春光うららかなころとなりました。みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
日ごろは大変お世話になっております。誠にありがとうございます。
さて、厚生労働省のHPによりますと、我が国の国民医療費(単年度内の医療機関等における傷病の治療に要する費用を推計したもの)は、33兆円を超え、一人当たりにすると約26万円になります。(平成18年度のデータ)
税収が40兆円程度であることを考えますと、医療にかかる費用はとても大きいですね。
いまの日本の医療は、どういう場合であっても、生命をできる限り維持することを至上命令としており、社会や法律もそれを要求しています。
もし、あなたが高齢になり、意識もなくなり、人工呼吸器なしでは呼吸もできない状態に陥ったとしたら、どうでしょうか。飲むことも食べることもできなくなれば、普通は数日の内に静かに息を引きとります。しかし、点滴で栄養や水分を補給したりすれば、生き続けることは可能です。しかも、呼吸できない状態になっても、人工呼吸器を装着して器械の力で呼吸をさせるなら、心臓さえ動いていれば、いつまでも生き続けられます。
大野竜三著『やすらかな死を迎えるためにしておくべきこと』より引用
病院に入院していれば、本人の明確な意思がない限り、必ず延命措置がとられるのだそうです。
曽野綾子さんの『人間の基本』に昔の看取りのことが述べられていました。
昔の老人は死が近づくとものを食べなくなり、家族はそれを自然に受け容れていました。例えば、寝たきりのおばあちゃんが食が細って来て西瓜だけ食べたいと言い出して、家族が方々さがして買ってきた西瓜を枕元に運んでも食べようとしないので、そのままにしておく。夜になると「好きな梅干しのお粥なら食べられるかも」と気遣う嫁の顔を立てて、一口二口食べたくらいで「もう歳だから、今日は何も入らんな」というようなやり取りをするうち、すっと息を引きとる。そういうものでした。
曽野綾子著『人間の基本』より引用
どう生きるか、すなわち、どう死を迎えるのかは自分が決めることです。
心身がしっかりしているうちに自分の方向性を決め、リビング・ウィル(自分で判断ができなくなる前に自分の治療についての希望を書いておく書類)を残しておくという方法もあります。
私は今まで三人の家族の死と遭遇してきました。亡くなった場所は自宅とホスピスでした。
ホスピスでは看護師さんが手続きを進めてくださるのですが、自宅で祖母が亡くなったときは、曽野さんの事例と似ていて病気ではなかったので、ちょっとした手続きが必要でした。直近に医師の診察を受けていなければ、事件性がないか調べられることがあるのです。
在宅治療を望む方が多いと聞きますのに、実際に亡くなると面倒なこともあるのだなあ・・・・・・と感じたのを覚えています。
死を目前にしてどういう気持ちを抱いていたのか、本人にしか分かりません。すべての方々がやすらかな気持ちであってほしかった、と思います。
松下幸之助さんは「死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れたほうがいい」と述べておられます。元気ないまこそ準備が必要なのです。
末筆となりますが、みなさまのご健勝、ご多幸を心よりお祈りいたします。今月もどうぞよろしくお願い申し上げます。
(医療費増大と生命の尊厳の間に関係はありませんし、ここでご紹介したケースは天寿を全うされた方々のことであって、若い方や闘病されている方には当てはまらないことです。)

参考文献:
『やすらかな死を迎えるためにしておくべきこと リビング・ウィルのすすめ』
大野竜三 (PHP新書)
『人間の基本』 曽野綾子 (新潮新書)
『道をひらく』 松下幸之助 (PHP研究所)
参考ブログ:「死の準備」
http://highlyeffective.naganoblog.jp/e541486.html
Hitoshi Yonezu at 10:00
| ささやタイムズ記事