内田樹さんの『疲れすぎて眠れぬ夜のために』に、エコロジカル・ニッチ論というものが紹介されていました。面白い考え方だと思いましたので引用してみます。
それぞれの種がその生態系において占める固有のポジションのことを「エコロジカル・ニッチ(生態学的地位)」と言います。
生物たちはそれぞれ微妙に差異化されたエコロジカル・ニッチに棲み分けています。それによってはじめて、有限の資源を最大限に活用することが可能になるからです。
(中略)
その上で、人間の場合は、文化的制度として作り出された「・・・・・・らしさ」が動物における「エコロジカル・ニッチ」の代用をしていると僕は考えているのです。
「男は男らしく」「女は女らしく」「子どもは子どもらしく」「老人は老人らしく」というときの「らしさ」というのは、いわば潜水艦における遮蔽壁のようなものです。その壁で隔てられているために、人間社会が提供しうる有限の資源の配分に際して、暴力的な競合が回避されている。
内田樹著 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より引用
今の日本では個性を偏重するあまり、「・・・・・・らしさ」がなくなり、電車の中に座り込んで大笑いをしながらパンをかじる女子中学生や、料理や裁縫もできない若い女性、妻子を養うことは面倒くさいことだと拒否する若い男性などが増えている、と内田さんはいいます。
確かに、最近の若い女性の中には、男性の使うような言葉でしゃべり、友達の男性に、「おい!米津!」と呼び捨てしている人がいます。
照れ隠しでこういう言葉を使っているのか、それが平等の証だと思っているのか、それとも漫画やドラマの影響なのでしょうか。
男性には、草食系男子というのもありますね。
こういうことが当たり前になると、内田さんのいうところの「暴力的な資源配分」、あるいは「潜水艦のクラッシュ」という状態までいくのかどうかは分かりませんが、まあ、美しい世の中ではなくなりますね。
一家の長老のような矍鑠とした老紳士、やさしそうで上品なご婦人、おもてなし上手のおかみさん、溌剌とした男子高校生、にこにこして楽しそうなお嬢さん・・・
「らしい」人を見ると、少なくとも私は、ほっとします。
こういう構成が社会の最適配分を担っていたんだ・・・草原を走るシマウマや、ライオン、ゾウ、キリンなどを想像しながら考えておりました。

参考文献:『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹 (角川文庫)
Hitoshi Yonezu at 10:00
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