鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
この句は子規の有名な俳句ですね。中学校の国語の教科書に掲載されていて、先生から学んだ記憶があります。
中学生だった私は、鶏頭?と聞いて、けいとう?けいと?毛糸?どんなものなのか全くイメージがわきませんでした。
何かの折に写真を見せてもらい、その姿を知ったときに、真っ赤なおどろおどろしい姿にぎょっとしたものです。あの毒々しい存在感があるからこそ俳句になるんだな・・・と納得しておりました。
中西進さんの『詩心』によれば、この俳句は、平凡な情景をただそのまま示しただけの「痴呆的な」作ではないか、という酷評もあるのだそうです。
瓶にさす 藤の花房 短ければ 畳の上に 届かざりけり 正岡子規
この短歌についても、当たり前の姿を詠んだものとして同類の非難を受けているのだそうです。
中西進さんは、「鶏頭にしても藤にしても、これほどに対象の本性を表面から消し、ひたすらに凡庸な姿に観察を深化させていった子規の、風物はこわい」・・・と評価をされています。
私は、藤の花は見たことがあるだけですが、垂れてこそ本来の藤の花が、花瓶に挿しても、畳に届かなくてやや間抜けな感じがまざまざと脳裏に浮かんできて、面白い情景をとらえているなあと感心します。
両方とも、ただ観ているだけのような表現ですが、とらえ方が芸術だと思います。
みなさまはどう思われますでしょうか。

参考文献:『詩心 永遠なるものへ』 中西進 (中公新書)
Hitoshi Yonezu at 10:00
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