子供のころ、私の祖父母は、外でお菓子などを頂いてくると、必ず仏壇にお供えしました。
私が、すぐに開けて食べようとすると、待ちなさい、と叱られたものです。
いまでもそのしつけが身についていて、何か頂いても、すぐに食べるということができません。
まずは仏壇にお供えして、時間を見ながら、ご先祖様、仏さまは召し上がったかな~そろそろ食べてもいいのかな~と考えてしまいます。
『般若心経の教える幸せになるための智慧』によれば、頂いたものを仏壇にお供えするということは、頂いた人が所有権を放棄し、仏さまの所有物になることであり、仏教でいえば「布施」にあたるそうです。
お供えされたものは仏さまが分けてくださるので、頂いた人が他の人の分け与えるという優越感もなく、みんなが平等に仏さまに感謝するという構図が生まれるのです。
もし、私がケーキを頂いて、それを平等に家族や社員に分けようとしても、そこには少なからず私意が入ってしまいます。どんなに私が偉そうなことを言っても、私にとって都合のよい分け方になってしまうのです。
仏教的にいえば、平等に分けることができるのは、お釈迦様だけなのです。
仏壇にお供えするということは、頂いたものに無関心を通し、欲望を捨てるということです。
大所高所にたって、何かよいことをしようと思っても、その裏には、必ず人間の欲望が絡まっているのです。

参考文献:
『般若心経の教える幸せになるための智慧』 ひろさちや 阿純孝 (ソフトバンク新書)
Hitoshi Yonezu at 10:00
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