お供えすること

2010年03月30日

 子供のころ、私の祖父母は、外でお菓子などを頂いてくると、必ず仏壇にお供えしました。

 私が、すぐに開けて食べようとすると、待ちなさい、と叱られたものです。

 いまでもそのしつけが身についていて、何か頂いても、すぐに食べるということができません。
 
 まずは仏壇にお供えして、時間を見ながら、ご先祖様、仏さまは召し上がったかな~そろそろ食べてもいいのかな~と考えてしまいます。

 『般若心経の教える幸せになるための智慧』によれば、頂いたものを仏壇にお供えするということは、頂いた人が所有権を放棄し、仏さまの所有物になることであり、仏教でいえば「布施」にあたるそうです。

 お供えされたものは仏さまが分けてくださるので、頂いた人が他の人の分け与えるという優越感もなく、みんなが平等に仏さまに感謝するという構図が生まれるのです。
 
 もし、私がケーキを頂いて、それを平等に家族や社員に分けようとしても、そこには少なからず私意が入ってしまいます。どんなに私が偉そうなことを言っても、私にとって都合のよい分け方になってしまうのです。

 仏教的にいえば、平等に分けることができるのは、お釈迦様だけなのです。

 仏壇にお供えするということは、頂いたものに無関心を通し、欲望を捨てるということです。

 大所高所にたって、何かよいことをしようと思っても、その裏には、必ず人間の欲望が絡まっているのです。
 人気ブログランキングへ
 参考文献:
 『般若心経の教える幸せになるための智慧』 ひろさちや 阿純孝 (ソフトバンク新書)
 

 Hitoshi Yonezu at 10:00  | Comments(0) | 読書感想

この記事へのコメントはこちらから

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
お知らせ
Hitoshi Yonezu
P.F.ドラッカーを読む読書ブログです。
 
ささや
< 2025年05月 >
S M T W T F S
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
インフォメーション
長野県・信州ブログコミュニティサイトナガブロ
ログイン

ホームページ制作 長野市 松本市-Web8