残暑お見舞い申し上げます。みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
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さて、ただいま長野県信濃美術館において『ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画「マネジメントの父」が愛した日本の美』という展覧会が開催されています。(8月23日日曜日まで)
ドラッカーは若いときに日本の古美術に興味をもち、大学で講義をするほどの研究家にまでなると同時に有名な収集家でもありました。ドラッカーも奥様もお亡くなりになったいま、このコレクションをまとめて見ることができるのは最後になるかもしれません。ドラッカーはお子さんたちに、作品は売ってよいという言葉を残されたと聞きます。千葉市美術館から信濃美術館に移動し、秋の山口県立美術館での開催を残すのみです。
私は7月中に一度見てまいりましたが、いくつかの新しい気づきがありました。お恥ずかしながら水墨画の展覧会は初めてでした。信濃美術館では、前期、後期で作品の入れ替えがあるようですので、後期も見に行くつもりです。
まず私が感じたのは、ドラッカーが集めた作品は年月とともにだんだんと変わってきたことです。初期のものと後期のものとはずいぶん変わっています。私は後期のほうがドラッカーの作品を見る目がより深まっているように思いました。これはドラッカーの著作の変遷とも重ね合わせながら考えてみました。
また、古美術といえどもまったく古くない、ということです。例えば伊藤若冲の「梅月鶴亀図」の鶴はまさに現代のデザインそのものだと思いましたし、仙厓の「鍾馗図」は、失礼かもしれませんが、いい意味で現代の漫画でも通じるものだと感じました。時代が変わっても芸術の本質は変わりません。同様にドラッカーの慧眼も生きて続けていることを感じます。
ドラッカーの『すでに起こった未来』の11章「日本画に見る日本」にドラッカーの日本画に対する考え方が述べられています。
この日本人の美意識を西洋や中国の美意識と対照するならば、西洋画は基本的に幾何学であると規定することができる。近代的な西洋絵画が、一四二五年ごろの直接投影法の再発見、すなわち幾何学による空間の征服とともにはじまったということは偶然ではない。
これに対して、中国の絵画は代数学である。中国画では比例が支配する。それは儒教の倫理と同じである。
それらに対して、日本画は位相的である。位相は、形と線が空間によって規定される。それは、直線と曲線の区別がないという面と空間の特性を扱い、一七〇〇年ごろに成立した数学の一分野である。位相は角度や渦巻きや境界線を扱う。それは、空間を規定するものではなく、空間が規定するものを扱う。
日本の画家は、その美意識において位相的である。彼らはまず空間を見て、次に線を見る。線からスタートすることはない。
『すでに起こった未来』 p256より引用
ドラッカーは我が国の戦後の発展を日本画を通して見ていました。
日本の近代社会の成立と経済活動の発展の根底には、日本の伝統における知覚の能力がある。これによって日本は、外国である西洋の制度や製品の本質と形態を把握し、それらを再構成することができた。日本画から見た日本について言える最も重要なことは、日本は知覚的であるということである。
『すでに起こった未来』 p268より引用
ドラッカー・コレクションを通じて、われわれは自らが知覚的であることを認識することができるでしょうか。
ドラッカーをよく理解するためにも見て頂きたい展覧会です。
いつも当社をご利用いただき、ありがとうございます。今月もどうぞよろしくお願いいたします。
参考文献:『すでに起こった未来』 P.F.ドラッカー (ダイヤモンド社)
長野県信濃美術館ホームページ
http://www.npsam.com/
ホームページから観覧料の割引券が印刷できるようです。

Hitoshi Yonezu at 10:00
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