暑中お見舞い申し上げます。みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
日ごろは大変お世話になっております。誠にありがとうございます。
ある飲み屋さんでマスターとお話をしていましたら、最近いろいろなことがうまくいかないとのことで、元気がないご様子でした。
彼も私もおおよそ同じ世代、大学時代まではバブル景気だったので、景気のよかった時代を少しだけ経験しているのです。
何の苦労もなく育ち、贅沢な時代を少しだけ知っている私たちは、いまの世の中に物足りなさや不安を感じてしまいます。
そう感じるのはすべて自分の責任ですし、これからよくしていくのも悪くしていくのも自分しかいないわけです。
なにか気が利いたことでも話そうか・・・・・・白取春彦さんの『生きるための哲学』に書いてあったことを思い出しておりました。
世界観、人生観、信念、信仰、哲学、教条などを持っている人は、それらがその人にとっての救いとなる場合がある、と白取さんはいいます。
なぜ、救いとなるのか。一つの観点を固く持ってそこから世間を見渡すことは、固定点を持つことだからだ。固定点を持った人は山頂に立って世界を見ているようなものだ。
悩んでいる人、深く迷っている人は、観点を持っていない。
『生きるための哲学』より引用
ところが、自分をとりまくさまざまな見方が価値観に影響を与えますので、多くの人は自分の観点を失ってさすらっているのだそうです。
「すべては解釈だ」とニーチェは述べて価値の相対性を強調したが、それから百年以上たった現代に生きる人間も依然として何か頼れるもの、価値の上下を判断できるような固定点を持たないと不安なのだ。
『生きるための哲学』より引用
白取さんはこんな問いかけをしておられます。
不安だから、なんらかの強力な固定点が欲しくなる。その固定点を外に求めて自分のものにしようとするか。もしくは、不安を抱えながらも、そのつど一つ一つ自分で考えて判断していこうとするのか。
どちらが強く生きようとする人の態度であろうか。
『生きるための哲学』より引用
私は「自分で考えて判断する方です」と答えますが、正しい答えなのかは分かりません。
「固定点を外に求めて」というのは、例えば宗教のことです。私も悩んだときには、よく菩提寺に参拝し、心の平安を求めました。どなたにも相談はしませんでしたが、祈ることをしなかったら解決はできなかったと思います。
外の力を借りた私は強いとはいえないかもしれません。
宗教にも政治にも周りの人にも頼らず、祈ることもせず、ひとり荒波をこいで行く人の海は、ときにはおおしけとなり、寂しさと不安にさいなまれる局面があるでしょう。それでも自立して生きている人はすごいな、と思います。そういう人がいるとしたら、これこそが人生を強く生きている人だといえるでしょう。
マスターも私も、固定点があろうとなかろうと、迷うことこそが生きているということ、この不安定さを楽しく思えるようになろうよ、と話してみました。
末筆となりますが、皆さま方のご多幸を心よりお祈りいたします。今月もどうぞよろしくお願いいたします。

参考文献:『生きるための哲学』 白取春彦 (ディスカヴァー・トゥエンティワン)
Hitoshi Yonezu at 10:00
| ささやタイムズ記事