知識の道具化

Hitoshi Yonezu

2011年12月07日 10:00

 このブログで「心の道具化」について書いたことがありましたが、今日ご紹介する「知識の道具化」は、名前は似ていますが、文脈はまったく違うものです。

 参考ブログ:「心の道具化」
 http://highlyeffective.naganoblog.jp/e811364.html

 白取春彦さんの『勉学術』より引用します。

 わたしは、何か資格を得るために、就職に有利になるようになどという目的で独学する人を卑しいと思う。利己的だから卑しいのではなく、知識を道具化しているから卑しいと思うのである。
 悪人の特徴は、知識を道具化することである。人をだまして商売して儲けようとする人は心理学を勉強して道具化している。それは心理学の悪用である。知識はいくらでも悪用ができるのだ。核分裂を利用して核爆弾を製造する例を挙げるまでもない。
 何かの目的を得るために知識を道具として使う人にとって、知識は自分の生き方や行いには関係のないものとなる。だからそこに教養人が生まれることはない。

                 『勉学術』より引用 


 これは厳しいですね・・・・・・

 私が日々実践している「ビジネス読書」は、経営に役立てよう、社会経済を知ろう、人生を豊かにしよう、という考えで行っています。
 
 白取さんによれば、具体的に何かに役立てようという目的があり、自分の人生や生き方に関係がないならば、それは教養にはなりえないということです。

 その意味では「ビジネス読書」は教養を育むものではありません。

 読書ブログを読んでくださった方から「教養がありますね」と御世辞を言われることがありますが、それはあくまで御世辞であって、私自身はビジネス読書が教養だと思ったことはありません。

 しかし、逆に卑しいと思ったこともありません。

 「ビジネス読書」や「ビジネス読書会」で学んだ知識がすぐに役立って利益があがる訳ではないし、そんなことを望んで読書会に参加しているメンバーもいないからです。

 白取さんは、教養の特徴は「たえず自分への問いかけをしてくる倫理的なものだ」と述べています。

 私はビジネス読書や読書会を教養を身につける場にしようとは思いませんが、ただの知識の交換会になってしまっては、白取さんの指摘する「知識の道具化」が目的の会ということになってしまいます。
 そうしないためには、単なる「知識の理解の場」を超えていくことでしょう。

 そこには、それが人生や生き方とどう関わるのか、という問いかけが必要なのだと思います。

 

 参考文献:『勉学術』 白取春彦 (ディスカヴァー・トゥエンティワン)
 

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