がんばっている自分は正しい?

Hitoshi Yonezu

2011年11月08日 10:00

 勝間和代さんの『まじめの罠』より引用します。

 さまざまな場面で「頑張ってもまったく報われない自分」に気づいてしまうと、無意識の中でどんどん、自己の「被害者意識」が増大していきます。なぜなら、「これは完全に世間が悪い。だって自分はこんなに頑張っているんだから!」といったような価値観の転倒が起こっていくのです。しかもこれは意識的にではなく、無意識に徐々に積み重なっていくのでタチが悪いのです。さらに、「頑張っている=自分は正しい」という言葉のすり替えがあることに本人は気づきません。自分は悪くない(頑張っている)のに報われないとしたら、まわりが悪いと責任転嫁するのです。

                  勝間和代著『まじめの罠』より引用



 長い引用になってしまい申し訳ございません。大切な部分だと思いますので引用しました。
 
 私も昔は、自分はがんばっているから正しい、と考えていたことがありました。

 子どものころから、がんばれば成果がでる、努力は必ず報われる、という教育を受けてきたからだと思います。
 
 それはそれで大切なことだと思いますし、そう教えてもらって感謝しております。今の人生の基礎だと思うからです。

 大人になったら、プロセスよりも結果や成果が求められるようになります。がんばったことはがんばったこと、結果は結果です。
 努力やがんばりがうまく成果に結び付くような、工夫や要領のようなものも考えなくてはなりません。器用に要領よく進めることも一連の努力のプロセスのうちに入るものだと思います。

 しかし、これが行き過ぎてしまうと、ノウハウやテクニックにばかり走るようになり、その場かぎりの薄っぺらい成果しか生まれないことになります。関係者からの信頼も得ることができず、長期的な成果は生まれないでしょう。

 がんばった自分に心酔して精神論に入ってしまっても、要領よく早い結果ばかりを求めても、どちらに振れ過ぎてもよくないのではないかと思うのです。

 責任が自分にあることは間違いがありません。
 
 周りがよく見えていないと、精神が内へ内へ向いていき、責任を周りに押し付けるようになってしまいます。忙しくてもいろいろな体験をして、他人の立場になって、常に自分を客観的に見られるようにならなくては、と思います。

 自分への反省です。

 

 参考文献:『まじめの罠』 勝間和代 光文社新書
 

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