自分自身の中にいる人
内田樹さんの『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より、引用します。
「人さまには見せられないざまだ」とか、「世間に顔向けできない」というような場合の「人」や「世間」は具体的な人間ではありません。それは一種の抽象概念です。そのような抽象概念が個人の身体の中に刷り込まれてしまうと、一人でいるときも「はしたないこと」や「さもしいこと」をすることができない。しようと思っても体がこわばって身動きならない、ということが起きます。神さまがみているのではないのです。自分自身の中にいる「人」が見ているのです。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より引用
この文章は、有名なルース・ベネディクトの『菊と刀』で紹介された「恥の文化」について、内田樹さんの解釈として書かれています。
例えば、困窮した生活により事件が起こった場合など、一般的には、関係機関に助けを求めればよかったのに、と思いますが、そんなことをしたら世間に顔向けができない、というのが助けを拒否した理由だった、ということはいまだに耳にすることです。
最近は街中にも一人暮らしのお年寄りも増えていて、衣食住を維持していくのは本当に大変なことだと思いますが、乱れることなくがんばって生活を維持されている理由の一つは、「恥の文化」があるからではないか・・・と考えてしまいます。
内田さんは、日本人の倫理性を担保しているのは、個人のうちに内面化し、身体化した社会規範だ、と述べています。
そういう倫理に育まれた世代の人々は、人が見ているところでも、見ていないところでも、つねに居ずまいを正して、一本芯が通ったような生き方をしていたのだ、といいます。
私はこの文章を読んで、明治維新から大東亜戦争敗戦くらいまでに生きていた日本人を想像しました。
アメリカは自由だと言いますが、大統領でさえ演説で、
God bless you.
と言う国です。
そのアメリカに、戦後あまりにも骨抜きにふにゃふにゃされてしまった日本人です。
我われはこれからどう生きるか、試されています。
参考文献:
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹 (角川文庫)
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