無いのではなく透明なのだ
以前、このブログで、仏教の「空」の考え方について書きました。
参考:『空(くう)の世界に生きる』
http://highlyeffective.naganoblog.jp/e204532.html
『100%幸せな1%の人々』に、「空」について、わかりやすい解説が出ていましたので、ご紹介します。
(以下引用)
「空」とはむなしいものではなく、存在しないと思いなさいというものではなく、もともと現象として存在するすべてのこと、それがすべて色がついておらず、何も絶対的な意味を持たずそこに存在している、という意味で「空」だった
(以上引用)
ものやことが存在しないわけではなく、そこに色が付いていないだけ、色をつけるのは自分であるということです。
不幸も悲劇も存在せず、そう思う私の心があるだけだというのです。
私は小学生の頃から般若心経に親しみ、難しい解説書も読んで勉強してきましたが、かつて「空」の意味について、少々間違った理解をしていました。
痛みやつらさや不幸があったときに、そう見える、そう感じるだけで、本当は何も無い、陽炎のようなものだ、それは幻なんだ、と考えていました。
しかし、事象は事象として起こっているのです。それ自体を無いと否定することはできません。
その病気や悲劇という事象が無いのではなく、それ自体はプラスでもマイナスでも、善でも悪でもない、中立であるということです。どう判断するのも私の心なのです。
般若心経には「無」の漢字も出てきますから、「空」は別の概念と考えてよいでしょう。
「無」ではなく、「空」である。
何も無しとして見えないふりをするのではなく、起こったことを見つめて、自分の心で判断せよという、そこに私のすべきことがあるような気がいたしました。
参考文献:『100%幸せな1%の人々』小林正観(中経出版)
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