『<子ども>のための哲学』を読んで

Hitoshi Yonezu

2013年09月19日 10:00

 永井均さんの『<子ども>のための哲学』を拝読いたしました。

 永井さんは1951年生まれ、慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院文学研究科博士課程で単位を取得され、現在は日本大学教授を務められています。専攻は哲学、倫理学で、著書には『倫理とは何か』(産業図書)、『<魂>に対する態度』(勁草書房)、『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ナカニシヤ出版)、『これがニーチェだ』(講談社現代新書)などがあります。

 題名に「<子ども>のための」とついていますが、子どもが読めるやさしい本ではないです。大人でも哲学になじみのない人は読みずらいのではないかと思います。(私もどちらかというとその部類です。)

 永井さんが子どものころから考えてきたという二つの問い、「なぜぼくは存在するのか」、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」・・・・・・を考察していくというものです。

 部分的には理解できましたが、全体の理解についていえば、もう一度読まなくてはならないように感じました。私に哲学の素養がないためです。

 いじめがいけないことだと子どもにいくら説得しても、納得してくれず、絶望した、という教師の投書に対して、永井さんは次のように述べています。

 でも、僕は思う。道徳的説得が通じないのは、じつは少しも驚くべきことではないのではあるまいか。真剣な道徳的説得は必ずひとの心をとらえるはずだというのは、いつかどこかで(ある目的のために)つくられた<うそ>ではあるまいか、と。その<うそ>がいつどのようにしてつくられたかについては、この本でも論じる機会があるだろう。重要なことは、この<うそ>を信じている人は、それを信じていない人に対して無力であり、せいぜいのところ、ただ「軽蔑」とか「侮蔑」という武器で対処できるだけだ、ということだ。よき教師たらんとするなら、この<うそ>を信じ込むのでなく、うそと知りつつときに応じて利用できるだけの力量を身につけなければならない、と僕は思う(このあたりになるともう、<子ども>の哲学どころか、それを経由して到達したかなり高度な<大人>の哲学なんだけど)。
 
         『<子ども>のための哲学』 p144-145より引用


 これはまじめすぎる先生にはできないことかもしれませんね。

 では、道徳というものは必要なのでしょうか。

 道徳についての道徳的発言、善についての善なる言説については次のように述べています。

 それは、絶対に必要なものなのだ。道徳という制度には、それを誉め讃えてくれる翼賛的イデオロギーがなくてはならないのだ。そういうものがなくては、人間は自然な同情心を超える範囲まで、自分にとって好いことと世の中にとって好いことを重ね合わせる動機が持てないからだ。つまり、倫理学が言っていることは全部<うそ>だけど、でも、それはぜひとも必要な<うそ>なのだ。法律なら、背後に権力を持っているから、そんなうそはなくていい。でも、道徳がちゃんと機能するためには、どうしてもそういう一種のまやかしによる援護射撃がなくてはならないのだ。

        『<子ども>のための哲学』 p172-173より引用


 やっぱり、「大人のための哲学的」な感は否めませんが・・・・・・

 道徳をいくら教えても役に立たない、犯罪が減らないじゃないか、と言われても、それでも教えていかねばならないのです。道徳には権力がないからです。
 
 道徳を声にしなければ、この世の中、不道徳がもっとのさばってしまいます。まやかしと思っても、道徳に援護射撃をするべきです。
 
 ご興味のある方はご一読くださいませ。
       
  


 参考文献:『<子ども>のための哲学』 永井均 (講談社現代新書)
 

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