軍艦島にて

Hitoshi Yonezu

2010年10月12日 10:00

 長崎の軍艦島の視察に行ってまいりました。軍艦島は、2009年に近代産業の遺物として、世界遺産暫定リストに掲載され、上陸して見学することができるようになりました。

 この写真、どうですか~まるで軍艦のようではありませんか?
 
 
  
 長崎港から南西に17.5キロメートルの沖にある端島は、もともとは水成岩の瀬に過ぎない小さな島でした。

 1810年に石炭が発見され、当時の佐賀藩が小規模な採掘を始めました。1890年からは三菱合資会社の経営となり、本格的な海底炭鉱として操業されてきました。

 石炭の採掘のために、周りを六回にわたって埋め立てて護岸堤防が造られ、元の大きさの三倍程度の面積まで拡張されてきました。

 その姿が、軍艦土佐に似ていたことから、通称軍艦島と呼ばれています。

 拡張されたとはいえ、周囲1.2キロメートルの小さな島に、最盛期の昭和35年には5,267人もの人が住み、その人口密度は東京の9倍だったそうです。

 島には、商店、派出所、お寺、神社、学校、病院、パチンコ屋、雀荘、旅館など、生活に必要なほとんどすべてのものがそろっていました。

 政策の転換により、主要なエネルギーが石炭から石油に代わりつつあった1974年、端島炭鉱は閉山し、無人島となりました。

 1916年に建てられた日本最古のRC造アパートである30号棟を始め、狭い島を有効活用するために、たくさんのRC造ビルが建てられました。

 いま、それらは、海風や台風にさらされ、徐々に朽ち果てつつあります。案内をしてくださった人によると、建物は年々崩れていて、風景はどんどん変わっているそうです。特に台風が直撃した時には大きく崩れてしまうようです。
 

 事務所とアパート群
 

 


 日本初のRC造アパートである30号棟
 浴室のない六畳一間に一家族が暮らしていたそうです。狭い部屋ですが、電化製品の普及率は日本一だったといいます。
 
 

 3号棟 RC造4階建て 職員(幹部)住宅 ここだけには内風呂があったそうです。
 


 RC造7階建ての町立端島小・中学校 70号棟 
 

 この島にたくさんの人が活き活きと暮らしていた時代もあったのです。

 戦前には、強制連行され、つらい思いをされた方もたくさんおられたそうです。

 私が上陸した日は、真っ青な空に、秋とは思えぬ強い陽射しでとても暑かったです。

 青い空と波の音・・・崩れかけた建物に余計に寂寥を感じさせます。

 栄枯盛衰とは申しますが 世の中の移り変わりというものを、こんなに強烈に見ることができるところはあるのでしょうか。

 この島は、近未来の都市の姿を予言しているのかもしれないのです。

 参考:ウィキペディア 端島
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_%28%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%29#20.E4.B8.96.E7.B4.80

 

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