『反・幸福論』を読んで

Hitoshi Yonezu

2013年07月09日 10:00

 佐伯啓思さんのご著書『反・幸福論』を拝読いたしました。

 佐伯啓思さんは1949年奈良県生まれ、東京大学経済学部卒業後、同大学経済学研究科博士課程単位取得、現在は京都大学大学院人間・環境学研究科教授を務めておられます。

 この本は平成22年12月から平成23年8月まで「新潮45」に掲載されたものです。時事的な出来事や話題をとらえて日本人の「幸福」について論じたエッセイ集です。

 日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思い出してみたいのです。

            『反・幸福論』 p8より引用


 昨今の日本における幸福について、佐伯さんは次のように述べています。

 こうして、「抑圧からの解放」という意味での自由が実現してしまった現代社会では、自由の実現は、あくことなき「利益」と「権利」の追求ということになってしまった。幸福であるための条件は「利益」と「権利」に接近することなのです。しかしそれは永遠に充足することはありません。「利益」と[権利」を無限に膨張させ続けるほかないのです。そのことは決して人を幸福にはしない。それどころか、ますます人を幸福から遠ざけてしまうのです。

            『反・幸福論』 p29より引用



 では、どんなことをすれば幸福に近づくでしょうか。佐伯さんはトルストイの考え方をその一つとして引用されています。

 そもそも幸福を私個人のものだと考えるからダメなのだ。なぜなら個人は個体として死んでしまい、消滅してしまうのだから。だから、個人の次元で幸福になろうとすると、人は幸福の可能性をなくすために幸福を追求する、という、ディレンマに陥ってしまう。
 ではどうするか。そこで他人の幸福を目指すことこそ己の幸福だと思えばよい。「他人が幸福になってくれることが私の幸福だ」というわけです。そもそも「死の恐怖」というのは、自分の肉体が消滅するというより、自分の幸福が消滅すると思うところから発するものであろう、とトルストイはいう。
 だが、自分の幸福は他人のなかにあると思えば、自分の死は自分の幸福の終わりだということにはならないわけです。自分が死んでも自分が幸福になってほしいと思う人が生きておれば、自分の幸福は消滅しないのです。

            『反・幸福論』 p127-128より引用
 

 これは深く考えさせられることです。

 このエッセイ集は知的好奇心を刺激するもので、それぞれの章を興味深く読むことができました。深く理解するためには、トルストイを始め、その他紹介されている原典を読まねばならないと感じました。

 みなさまもどうぞご一読くださいませ。

  


 参考文献:『反・幸福論』 佐伯啓思 (新潮新書)
 

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