2013年07月09日 10:00
日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思い出してみたいのです。
『反・幸福論』 p8より引用
こうして、「抑圧からの解放」という意味での自由が実現してしまった現代社会では、自由の実現は、あくことなき「利益」と「権利」の追求ということになってしまった。幸福であるための条件は「利益」と「権利」に接近することなのです。しかしそれは永遠に充足することはありません。「利益」と[権利」を無限に膨張させ続けるほかないのです。そのことは決して人を幸福にはしない。それどころか、ますます人を幸福から遠ざけてしまうのです。
『反・幸福論』 p29より引用
そもそも幸福を私個人のものだと考えるからダメなのだ。なぜなら個人は個体として死んでしまい、消滅してしまうのだから。だから、個人の次元で幸福になろうとすると、人は幸福の可能性をなくすために幸福を追求する、という、ディレンマに陥ってしまう。
ではどうするか。そこで他人の幸福を目指すことこそ己の幸福だと思えばよい。「他人が幸福になってくれることが私の幸福だ」というわけです。そもそも「死の恐怖」というのは、自分の肉体が消滅するというより、自分の幸福が消滅すると思うところから発するものであろう、とトルストイはいう。
だが、自分の幸福は他人のなかにあると思えば、自分の死は自分の幸福の終わりだということにはならないわけです。自分が死んでも自分が幸福になってほしいと思う人が生きておれば、自分の幸福は消滅しないのです。
『反・幸福論』 p127-128より引用