『最後の授業』を読んで

Hitoshi Yonezu

2010年10月01日 10:00

 しだいに秋も深まってまいりました。みなさまいかがお過ごしでございましょうか。日頃は大変お世話になっております。誠にありがとうございます。

 さて、私は、毎日の生活に慣れ切ってしまって、何もないことを退屈だと思ってしまうことがあります。普通であることが幸せだいうことには、なかなか気がつかないものです。

 平凡だと思っていた毎日がどれだけ幸せだったことか、ことが起こって初めて理解することができるのです。
 
 2007年9月、カーネギーメロン大学の講堂で、一人の教授が最後の授業を行いました。ランディ・パウシュ教授、46歳。その一か月前、パウシュ教授は、膵臓癌が転移していることがわかり、余命宣告を受けていたのです。

 パウシュ教授は、聴講に集まった学生たちに、残される妻に、そしてまだ幼い三人の子供たちに、自らの生き方について語りかけていきます。その講義が『最後の授業』というDVDつきの本になっています。

 この本は決して自己啓発書のような教訓めいた書き方はされていません。パウシュ教授が経験してきた人生が淡々と語られています。

 最終章で、三人の子供たちと妻のジェイへ向けて、自分が死んだ後のことを語っています。ここに彼は最も力をこめた・・・と私は感じました。

 子供たちへは、親として具体的な夢をおしつけない、子供が夢を実現する方法を見つけるように助けてやることが親の仕事だ、ということを伝えます。
 期待はしながらも、こうしてほしい、こうなってほしいという希望は、あえて言っていないのです。

 ジェイに対しては、彼女が余りにも面倒見がよいために、自分の面倒を見るのを忘れてしまうのではないか、と心配しています。一日のうち、たとえわずかな時間でも一人になって、自分の充電をしてほしいと願うのです。

 最近、私の知人の30代の女性が、病によって突然倒れ、意識不明になってしまったそうです。本当のお気の毒なことと思い、回復を願ってやみません。

 人間である以上は、いつでも、誰でも、病気になったり、事故にあう可能性があるのです。

 そういうときに、心を落ち着けて、自分の人生に向き合うことができるのか。

 いまどう生きるのか、ということは、いま病になったらどうするのか、と同じことです。

 生きてから時間の経過とともに一直線に死に向かっていく我々にとって、どう生きるかということは、どう死と向き合うか、と同じことです。

 松下幸之助さんも、死の準備、それが生の準備であるとおっしゃっています。

 重い話になってしまいましたが、普段はあまり考えたくないことだけに、あえて考えてみました。

 末筆となりますが、みなさま方のご多幸を心よりお祈りいたします。今月もどうぞよろしくお願いいたします。

 参考ブログ:『死の準備』
 http://highlyeffective.naganoblog.jp/e541486.html

 
 参考文献:
 『最後の授業 ぼくの命があるうちに DVD付き版』
 ランディ・パウシュ/ジェフリー・ザスロー (ランダムハウス講談社)
 

 『道をひらく』 松下幸之助 (PHP研究所)
 

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