電車の中で分かった愚かな自分

Hitoshi Yonezu

2010年08月11日 10:00

 山手線などの通勤用の電車に乗ると、ドアのすぐ両側に人一人が立っていられるスペースがあります。そこに立っていれば、他の乗客の乗り降りの邪魔にならずにいられます。

 先日、出張した折、私はそのスペースから一人分後ろ側に立っていました。私の前のそのスペースには長い黒髪の妙齢の女性が壁を向いて立っていました。

 立っている乗客で7割くらいは埋まっていたでしょうか。

 ある駅に入ろうとしたとき、線路が入り組んだ場所を通過した電車は左右に大きく揺れました。

 私の前にいた女性は大きく振られて、後ろに大きく左足を引き、私の左の靴を真上から、ギューっと踏んだのでした。

 電車の揺れだからしょうがないとは思いましたが、腹が立ってしまったのは、そんなに混んでいるわけでもないのに、その女性が私の方を向いて謝らなかったからでした。

 そうはいっても、こんなことで怒っても仕方ないですから、すぐに諦めて、足を踏まれた感触も忘れかけていました。

 しばらく、私も、その女性もそのまま電車に乗っていましたが、ある大きな駅に着くと、その女性は、くるりと後ろを振り向きました。


 その女性の手には、白い杖がありました。


 ・・・ ・・・ 目のご不自由な方だったんだ ・・・ ・・・


 私は大きなパラダイム転換をしました。


 挨拶の出来ない失礼な人だと思って沸き上がった怒りは、ハンディキャップのある方だと分かった瞬間に、怒るべきことではなかった、自分の怒りは間違いだった、と収まったのです。

 心の中だけとはいえ、健常な方と、ハンディキャップのある方とで対応を変えてしまった自分の精神は未熟であり、実に愚かでした。


 仏教では、貪、瞋、癡(とん、じん、ち)を、三毒あるいは三大煩悩と呼びます。

 貪はむさぼり、瞋は怒り、癡は愚かさを意味します。

 地獄の住民は瞋恚(しんい:自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)の心に毒されているそうです。競争心が強いから、怒るのです。
 

 足を踏まれたくらいで、特別の反応を求めていた自分・・・貪

 私はなぜ足を踏まれたくらいで怒りを覚えてしまったのか・・・瞋

 もう学んでいることだったのに、学んでも学んでも、自分自身を乗り越えていくことが出来ない・・・癡



 僕は、喜んで損を引き受けるのではなかったのか・・・

 まだまだ修行が足りないんだ・・・

 自分の人間性の低さを恥じた瞬間でした。

 

 参考ブログ:『どうしたら損をすることができるか』
 http://highlyeffective.naganoblog.jp/e435614.html

  参考文献:
 『般若心経の教える幸せになるための智慧』 ひろさちや 阿純孝 (ソフトバンク新書)
 

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