学識と衒学
ドラッカーの『経営者の条件』第3章「どのような貢献ができるか」より引用します。
知識ある者は理解されるよう努力する責任がある。素人は専門家を理解すべきである、あるいは専門家は専門家と通じれば十分であるなどとすることは、野卑な傲慢である。大学や研究所の内部においてさえ、残念ながら今日珍しくないそのような風潮は、彼ら専門家自身を無益な存在とし、彼らの知識を学識から卑しむべき衒学に貶めるものである。
『経営者の条件』 p89より引用
原文では次のように表現されています。
The man of knowledge has always been expected to take responsibility for being understood. It is barbarian arrogance to assume that the layman can or should make the effort to understand him, and that it is enough if the man of knowledge talks to a handful of fellow experts who are his peers.Even in the university or in the research laboratory,this attitude---alas,only too common today---condemns the expert to uselessness and converts his knowledge from learning into pedantry.
”The Effective Executive” p62
知識のある者は理解されるよう努力する責任がある・・・・・・
The man of knowledge has always been expected to take responsibility for being understood.
組織にはさまざまな分野の専門家がいます。
研究など難しい分野の専門家もいるでしょう。職人技を必要とする専門家もいるでしょう。
これらの人びとは周りの一般の人々に対して、理解してもらえるように説明する責任をもっているのです。
「分からないなら自分で調べろ」というのは、「野卑な傲慢」であるわけです。
「衒学(げんがく)」とは難しい言葉ですね。この本で初めて出会った言葉です。
新明解国語辞典によると「学殖を必要以上に見せびらかすこと」という意味です。pedantryの訳語と説明がありました。英語から来た言葉でしょうか。学者ぶったり、知識があることを自慢するさまをいうのでしょう。
それぞれの分野の専門家は、自分の知識を自慢してはなりません。門外漢の人びとに理解されるように分かりやすく説明してあげるべきです。
組織が成果をあげるためです。
barbarian 野蛮人な、教養の欠けた layman しろうと、門外漢
peer 地位の等しい人、同僚 condemn 有罪(やましさ)を証明する、運命づける
pedantry 衒学、学者ぶること
参考文献:
『経営者の条件』 P.F.ドラッカー(著) 上田惇生(訳) (ダイヤモンド社)
”The Effective Executive” P.F.Drucker (Harper Business)
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