常識と道徳
残暑もようやくやわらいで、朝夕ここちよい季節となりました。みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
日頃は大変お世話になっております。誠にありがとうございます。
最近、飲食店やコンビニで悪ふざけをしてそれを写真に撮り、ツイッターやフェイスブックに投稿する若者が問題になりました。
おもしろいことをして目立ちたいのでしょうか?これだけ報道されているのに後から後から同じ蛮行を繰り返す若者が出てくるのはなぜなのでしょう?不思議なことだらけです。
当社が定めている行動指針14項目の第11番目は「私は、お客さま、社員、スタッフ、会社の機密事項および資産を守ります。」というもので、会議の始まるときにはこの文章を含む全文を必ず復唱させています。
あんな常識のないことをする者はうちにはいるはずがない、と信じつつも、もしものことが心配になって、この問題について朝礼や社内会議で取り上げています。
なぜ常識のない人がいるのか、曽野綾子さんは次のように述べています。
常識というものは、常に相手の存在を意識するところにある。相手はどうでもいい、と思うから非常識が発生する。もちろん相手はどうでもいい、相手の幸不幸なんて考えたこともない人というものは、いつの時代にもけっこういる。自分の芸術は偉大なもの、自分の経営者としての腕前は絶対のもの、家庭における自分は一番偉くて家族は皆自分に従うもの、と思っている人は、一時代前だけでなく、今でもよくいる。そう思えば、他者の存在や考えなど全く意に介さなくなる。自分の意志にある中の世界だけが絶対であり、他者に迎合する必要はないと思える。
このように「他者、あるいは外界の感覚の不在」が、未熟な大人を作るのである。
『人間にとって成熟とは何か』 p120-121より引用
常識のない人は、相手の存在を考えていない、他人や外界の存在の感覚がない、というのです。
先日、大宮から湘南新宿ラインに乗ったとき、車内で若者が大声で電話をしていました。ご存知の通り、車内通話禁止は日本のマナーです。
隣の人が注意をしたのですが、やめませんでした。私は後ろの席にいたので、後ろから注意しました。すると、通話をやめてくれました。ところが、しばらくして電話がかかってくると、また通話を始めてしまったのです。
私はなんとも恐ろしい自己中心性、他人不在の精神性を感じたのです。
道徳の考え方が圧倒的に不足しているのではないですか。永井均さんは『<子ども>のための哲学』で次のように述べています。
道徳という制度が存在することで、まちがいなく世の中はよくなる。でも、その制度がちゃんと働くためには、それに何か特別に重要な価値が認められていなくてはならない。たとえば、それに反すると、その人がその人であることそのものが壊れてしまう、といったような。みんながそういうことを信じていれば、世の中はまちがいなくよくなる。にもかかわらず、みんなが信じているそのことは、実は単なる<うそ>なのだ。みんなが信じることで<ほんとう>にされてしまうけれど。
『<子ども>のための哲学』 p173より引用
道徳的な発言を援護しないかぎり、道徳は<ほんとう>のことにはならないのです。道徳は何の支援もない弱弱しい存在です。
社会があまりにも道徳を軽んじた結果、一部の若者にとって道徳的な行動や発言が<うそ>のように見えてしまっているのではないか、と思います。
道徳を<ほんとう>のことにする責任は、大人にあります。
末筆となりますが、みなさま方のご健勝、ご繁栄を心よりお祈りいたします。
今月もどうぞよろしくお願いいたします。
参考文献:『人間にとって成熟とは何か』 曽野綾子 (幻冬舎新書)
『<子ども>のための哲学』 永井均 (講談社現代新書)
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