雑事を行うことについての問題点

Hitoshi Yonezu

2013年09月13日 10:00

 ドラッカーの『ポスト資本主義社会』第4章より引用します。

 雑事は、本来の仕事の生産性を破壊するだけでない。仕事への動機づけと誇りを台無しにする。今日では多くの病院が、書類仕事を一括して、看護とは関係のない、事務処理を本業とする専任の事務職員に任せている。その結果、生産性は倍増し、仕事の満足度も倍増している。彼らは突然にして、自分たちが訓練され雇用された本来の仕事、すなわち患者の世話のための時間をもてるようになった。

      P.F.ドラッカー 『ポスト資本主義社会』 第4章 p115より引用


 大きな病院で診察を受けると、医師の傍らに座っているのは、看護師さんではなくて、秘書であることも珍しくないですね。

 CT、MRI、入院などの予約事務、他の科との連携、カルテの記載の補助など、医師にとっては雑事である仕事を、セクレタリーが専門家として素早く適正に処理されているようです。

 秘書が雑務を担当してくれるおかげで、医師は本来の仕事である診察に集中できます。

 日本においては雑務を行うことも大切な仕事と考えられているような文化があります。むしろ雑事を行うことが美化されてしまっているような感じもします。

 この雑事を続けているから、本来の仕事がよくなるのだ、という精神的なものです。

 よくあるのはトイレ掃除ですね。私も長年続けてきました。

 こういったものは、それをしているから本来の仕事がよくなるのだ、と信じていて、仕事の成果も上がっており、かつそれを行う十分な余裕があるのなら、否定するものではありません。

 しかし、本人がいやいやながら行っていたり、本来の仕事を脅かすくらいの時間を使っていて成果が落ちたりしているのなら、やめるべきと思います。

 ひどい言い方と思われるかもしれませんが「いくら掃除をしても本来の仕事の成果は上がりっこない」ということです。

 その場合は雑事を専門家や別の担当者に任せて、自分は即刻、本来すべき自分の仕事に戻るべきです。

 無理に続けていると、雑事の対応をするだけで満足してしまうような勘違いも生じます。

 私は日本的な精神論が好きで、雑事も好んで行う人間ですが、ドラッカーの指摘するような冷静な視点も忘れてはならないと思っています。

  


 参考文献:
 『ポスト資本主義社会』 P.F.ドラッカー(著) 上田惇生(訳) (ダイヤモンド社)


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